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にわか雨

時広
JuJu
協力胡桃みく

 ツクツクホウシの声が細く響く、広島の夕暮れ。
 沈んでいく陽の紅に陰りが射したかと思うと、瞬く間に黒い雲が膨れあがって空を覆い尽くす。
 ちょうど校舎を出たところだったぼくは、くたびれた学生鞄を握る手の甲に一粒の水滴が当たったのを感じて、回れ右をした。
 生徒用玄関の把手に手をかけ、重いガラス扉を引く。下駄箱の列の間に、扉の丁番がたてる、きしむような甲高い音が反響する。校舎に戻ったのとほぼ同時に、大粒の雨が無数に降り注ぎ、前庭のアスファルトを叩き始めた。
 朝からつい今し方まで、雲ひとつなく晴れていたのだ。傘なんか持っているわけがない。まいったな、つぶやきながら靴を履き替え、鞄を下駄箱の上に放り上げた。手ぶらになって薄暗い廊下をあてもなく歩き始める。それから、今のひとことを思い返して苦笑する。困ってなどいないのだ。授業が終わってから今まで、何をするでもなく居残っていたのだから。そろそろ帰ろうかな、と溜め息まじりに感じた時刻がもっと遅くても構わなかった。
 それに、雨に濡れて帰ってもいいんだ。半ば投げやりにそう思う。ただなんとなく引き返してしまったら、雨のなかに駆け出すきっかけを失った。それだけのことだ。
 なんとなく、そう、生活のすべてが「ナントナク」だ。ナントナク学校へ来て、ナントナク授業を受けて、ナントナク居残って……何ひとつ形のあるものを残さずに、ただ時間だけが正確に過ぎていく。毎日がその繰り返しだ。級友の多くが間近に迫った大学受験や、就職のことを頻繁に話題にするようになっても、ぼくは冷めた気持ちで聞くだけだ。日常のあらゆる事柄が、自分とは直接には関係しないような気がする。
 世界が退屈に埋もれている、なんてことは思わない。たぶん、いろんな楽しみや喜びがあるんだろう。そんなことは分かっているし、もちろん、羨ましくも思う。でも、そういうものを手に入れる人たちがいるから、何もできないぼくはどんどん霞んでいく。澱んだ空気のようになったぼくには、もうそんな楽しみをつかみ取る力もなければ、資格もないのだ。
 残夏の日差しを厚い雲にさえぎられ、外はすっかり暗くなっていた。階段を昇って三階まで上がり、くすんだ色の明りを投げかける蛍光灯の下を、ぽつぽつと歩いていく。まっすぐ続く廊下にひとりきり。雨がコンクリートの校舎にぶつかる音が、ざわめきとなってぼくを包みこむ。
 不意に青白い光が閃き、ぼくは身を固くして立ち止まった。校舎のなかの様々なものが、一瞬、光に煽られ、深い影を辺りに刻みつける。遅れて地響きのようなくぐもった轟音が鳴り渡った。
 アルミサッシの窓に歩み寄り、しっかりと閉じられたガラスの向こうを覗き見る。ガラスには激しく雨がぶつかり、景色をにじませている。窓を射抜いて、再び強烈な光が飛び込んできた。
 かみなり。言わずもがなのことを、わざわざ口に出してみる。光の向きからすると、雷雲は西の方から近づいているらしい。ぼくは息苦しいような胸の高鳴りを覚えて、校舎西館への渡り廊下を足早に進む。また、雷が鳴った。人気のない薄暗い校内を雷光が照らし出す光景は、不気味ではあったけれど、何故か胸踊る感じがした。
 立ち並ぶロッカーの横を通りすぎて、西校舎のほうへ角を曲がる。入り口の引戸が開け放たれた真っ暗な教室の外側の窓に、天地を貫いて走る稲妻が見えた。ごつごつした雲と、ひっそりとした町並みを暗闇に浮かび上がらせて、光が迫ってくる。
 ぼくは引き寄せられるように、その教室に入っていった。
 閃くひかり。
 整然と並ぶ机と椅子が束の間、白く浮かび上がる。そのひとつに座る人影を見つけ、思わず身構える。慌てて足を止めたぼくの上履きのゴムが床を打ちつける音は、やってきた雷鳴にかき消された。
 ほかに誰もいない、電灯もついていない教室にひとり残っていた人影の主は、女の子だった。頬杖をついて窓のほうを見ていたその子が、ぼくに気付いたのだろう、ゆっくりと振り返る。廊下から漏れ入ってくる薄暗い明りのなかで、ショートの赤い髪が揺れた。淡い光にぼんやりと顔が照らされる。
 七瀬優。
 ぼくはその子の名前を知っていた。同級生ではあるけれど、今まで一度も同じクラスになったことはないし、言葉を交したこともない。校内で何度か見かけたことがある、という程度。ただ、あまり学校に出てこない「変わり者」という、噂みたいなものは聞いていたのだ。
 暗くて表情はわからなかったけれど、七瀬の方はさほど驚いた様子ではなかった。勢いよく教室に飛び込んだぼくは、気まずい思いで立ち尽くす。
「どうしたの」
「いや、あ、雨宿りだよ」
話しかけられるとは思いもしなかった。ちょっと低い、深い声。ぼくは何気ないふうを装おうとしたけれど、声が少し裏返ってしまう。七瀬にはどう聞こえたろうか。ふうん、と答えて、星のような瞳でぼくにまなざしを投げかけている。無意味な言いわけが見透かされるような気がした。
 また、光が閃いた。見つめあうかたちになっていたぼくと七瀬は同時に窓の方へと向き直る。雲間から飛び散る稲妻が、続けざまに二本、蛇行しながら彼方の大地│もしくは、海│に突き刺さる。
 激しくてはかないひかり。ぼくはその一瞬の幻想に引き込まれた。音の洪水が押し寄せてきて、校舎を震わせる。次の稲妻を待って心が昂る。
 ぼくの横顔に七瀬の視線が注がれているのを感じたのは、幾度かの雷光の後だった。一瞬躊躇してから、体の向きはそのままで、首だけを回して七瀬のほうを見る。
 暗い教室に目がなれたのだろう、七瀬の表情に悪戯っぽい微笑みが浮かんでいるのが見てとれた。
「なに?」
小さく尋ねるぼく。
「ふふっ、私もね、」
笑みをともなった、はずむような声。
「これを見ていたんだ。」
「これって……かみなりのこと?」
「そう。」
まなざしに、問いかけるような、試すような、そんな含みが感じられた。ぼくはためらいながら、結局、陳腐な質問を口に出す。
「こわくないの。」
「こわい……って、雷が?」
「うん。」
「……ふふっ、そうか。ふつうは、そうなのかな。」
七瀬はおかしそうに笑ったけれど、声は少し沈んでいた。窓のほうに目をやる。駆ける稲妻。
「でも、こんなにきれいだよ。」
 そうだね、うなずいたのは心の中だけのつぶやきだった。声にできるほど素直でない自分が厭わしい。思ったままを自由に表現できる七瀬を前にすると、後ろめたい気がした。
 そう、意外なのは七瀬だ。噂から感じた印象とはずいぶんと違って見える。もちろん、噂が信用できるものだなんて思っていない。でも、知っている噂が人の主観を左右することも確かだ。えてして「噂通り」に相手を意味づけてしまう。だけど、七瀬はそんな先入観の常識を打ち破るほどの存在を示してくれた。少なくとも、ぼくには。もっとも、七瀬自身はそんなことなど、まるで気にかけていないのだろうけれど。
 「きみも、そう思ったんじゃないの。」
「まあ、ね。」
七瀬に問われて、喉の奥に引っかかっていた思いがぎこちなくこぼれ出る。その言葉すら、まるで素直ではなかったけれど、七瀬は目を細めて、ふふっと微笑んでくれた。澄んだ瞳にぼくの心のなかの葛藤が見抜かれている、そんな気がした。
 「さて、と。」
七瀬がつぶやいて立ち上がる。帰るのかな。何故か、残念な気持ち。
「屋上に行ってみない?」
またも意外な問い。あまりに唐突で、ぼくも答えの手順をひとつ飛ばしてしまう。
「雨、降ってるよ。」
「大丈夫、もう止むよ。」
言われて耳をすませば、さっきまでの叩きつけるような雨音が、今はずいぶん小さくなっていた。
 「どうする?」
「……行こうか。」
また、「ナントナク」か。いや、そうじゃない。ぼくが感じたのと同じように稲妻をきれいだと言った七瀬が、屋上に何の用があるのか知りたい。それに、誘われたことも嬉しかった。じゃあ、行こう、と廊下に出た七瀬のほっそりとした後ろ姿を見ながら、あまり早足にならないよう注意しながらついていく。
 階段を昇り切り、半ば物置になった踊り場の、黒板やら学園祭の看板やらを乗り越える。七瀬が出入り口の古ぼけたドアを開け放つと、ひんやりとした夜気が舞い込んできた。夏の名残りの暑さはにわか雨に追い立てられて、どこかへ溶け去ったようだ。
 雨は上がっていた。
 かわりに降りそそいでいるのは、空一面に広がる無数の星の光。雨雲はどこに消えたのか、今や空を隠すものは何もない。またたきながら降りてくる星々の輝きは、耳元に賑やかなざわめきすら感じさせた。
「これを待っていたんだ……たまには学校にも来てみるものだね。」
七瀬は腕を大きく広げ、深呼吸しながら言った。瞳が星を映して熱っぽくきらめいている。反らせた胸の、決して小さくはないふくらみが目にとまった。
「どう?」
そのままの姿勢の七瀬に問われ、ぼくは慌てて視線を空へ送る。満天の星空は、ぼくの泡立った心をゆっくりと静めてくれた。透きとおった光がぼくのなかに舞い降りて、広がっていく。
「すごいな……。」
嘆息したぼくを、七瀬はちらりとみて、また夜空に目を戻した。
 それからぼくたちは、無言で星を眺め続けた。
 瞬く星はひとときとして同じ表情にとどまることなく、様々な顔を見せた。星々の光があふれる空に吸い込まれるような感覚が、たまらなく心地良い。まるで自分が宇宙に浮かんでいるようだ。
 最後に空を、星を仰いだのはいつだったろうか。知らず知らず、心が思い出の糸を手繰る。あのときの想い、あのときの気持ち、あのときの夢。星の光に照らされて、彼方の記憶が静かに浮かび上がる。かつての自分と心が重なった、ような気がした。
 「そうだな。」
思い出したものは漠然としていて、はっきりしていることは何一つなかったけれど。懐かしい自分に出逢えた、そう感じてつぶやいた。
 「そろそろ帰るよ。」
そう告げると、七瀬は「うん」と空を見上げたまま答えてくれた。七瀬らしいな、そう思いながら出入り口のドアノブに手をかける。小さく声にする「ありがとう」。それが七瀬に届いたかどうかはわからなかった。
 正面玄関を出たぼくを、にわか雨の匂いを漂わせた緩やかな風が迎えてくれた。鞄を脇に抱え、校門の方へ歩き出す。水たまりをひとつ、飛び越えた。
 明日からはぼくと七瀬はまた、言葉も交さない間柄に戻るだろう。いつものぼく、いつもの七瀬。そして「ナントナク」過ごす日々。だけど、今日と同じ想いで星空を見上げることはあるかもしれない。いや、きっと、必ず。
 校門をくぐってから、そっと振り向く。まだ七瀬がいるだろう屋上を見上げる。七瀬の姿は、さすがに暗くて見えない。空に目を移す。
 星の海に、ひとすじの流れ星。


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